「最新のIoT機器やAIシステムを導入したのに、現場で全く使われない…」
「ITベンダーの言う通りに進めているが、現場からは『余計な仕事を増やすな』と反発を受けている…」
「経営層は『DXでコスト削減だ』と息巻いているが、現場のオペレーションを全く理解していない…」
もしあなたが製造業のDX推進担当者として、このような「進まないDX」に頭を抱えているのなら、その焦りや徒労感は痛いほどわかります。しかし、断言します。それは決して、あなたの能力不足が原因ではありません。
失敗の根本原因は、高価なツールや最新技術の選定ミスにあるのではありません。もっと根深く、厄介な問題が横たわっているのです。
初めまして。私は大手鉄鋼メーカーの製造現場に12年いました。ヘルメットを被り、安全靴で油の匂いがする工場を歩き回るのが日常でした。その後、ITエンジニアに転身し、今では事業責任者としてDXを推進する立場にいます。
評論家ではありません。製造現場の「言語」と、ITの世界の「言語」。その両方を話し、両方の世界の痛みを骨身に染みて理解している、極めて稀有な当事者です。だからこそ、多くの企業が見落としている「製造業DXの失敗の本質」について、お話しすることができます。
製造業DXの課題は「技術」ではない。本当の敵は「文化の壁」だ
多くのDXプロジェクトがなぜ失敗するのか。その原因を分析すると、「技術選定ミス」「予算不足」「経営層のコミットメント不足」といった言葉が並びます。しかし、それらは全て表面的な事象に過ぎません。
本当の敵、それは部署間にそびえ立つ「文化の壁」であり、部門ごとに最適化されすぎた「サイロ化」に他なりません。
私がいた鉄鋼の現場では、1秒のライン停止が数百万の損失に繋がることもありました。そこでの絶対的な合言葉は「安全」と「安定」です。一方で、ITの世界で良しとされる「まず試してみる(Fail Fast)」という文化は、製造現場では「事故」や「不良品」を意味します。
この、絶望的なまでの文化の違いを理解しない限り、DXの成功は極めて難しくなるでしょう。
IT部門は「最新技術で業務を標準化し、データを一元管理すること」を正義だと考えます。
製造現場は「長年の経験と勘で、目の前のラインを止めずに安定稼働させること」を正義だと考えます。
どちらも間違ってはいません。しかし、お互いの正義が、お互いの言葉と思考を理解できないまま激しく衝突する。これこそが、「製造業DXが進まない」根本的な原因なのです。
私がDXで大失敗した話 – 「手元のメモの方が100倍速い」と言われた日
偉そうなことを言っていますが、何を隠そう、私自身がこの「文化の壁」にぶつかり、大失敗をやらかした経験があります。
ITエンジニアになりたての頃でした。鉄鋼現場の経験を活かせると意気込み、ある工場の生産性を劇的に改善するシステムを企画・提案したのです。技術的には完璧で、データ上は間違いなく効率が上がるはずでした。
しかし、現場のベテラン作業員の方に説明した際に返ってきたのは、感謝の言葉ではありませんでした。彼は私の資料を一瞥し、こう言い放ったのです。
「そんなもん、手元のメモの方が100倍速いわ」
頭をガツンと殴られたような衝撃でした。私は「技術的な正しさ」と「理想の業務フロー」しか見ておらず、長年の作業で最適化された「現場のリアルな動き」や、メモに書かれた数字の裏にある「暗黙知」を完全に無視していたのです。現場からすれば、私の提案は「余計な仕事を増やす厄介者」でしかありませんでした。
あの時の、自分の無力さと独りよがりに対する悔しさが、私の原点です。
「DXが進まない」を解決する、元・現場監督からの5つの処方箋
では、この根深い「文化の壁」や「現場の抵抗」をどう乗り越えればいいのか。机上の空論ではない、私が現場とITの両方を経験したからこそ提言できる、具体的な5つの処方箋をお渡しします。
処方箋①:KPIを「IT部門」から「現場」に移す
DXの目的を「新システムを〇〇件導入する」といったIT部門目線のKPIに設定していませんか? それを今すぐやめてください。KPIは「現場の〇〇の作業時間が何%削減されたか」「△△の検査精度が何%向上したか」といった、現場のメリットに直結するものに設定し直すべきです。目的が変われば、アプローチも自ずと変わります。
処方箋②:「翻訳者」を任命または育成する
あなたの会社には、現場の「ちょっとこの作業が面倒なんだよな」というボヤキを、IT部門が理解できる「要件」に変換できる人がいますか? 逆に、IT部門の専門用語を、現場の作業員が「つまり、俺たちの仕事がこう楽になるってことか」と理解できる言葉に訳せる人はいますか? この「翻訳者」の不在こそ、DXが頓挫する最大の理由の一つです。この役割を担える人材を見つけ、任命し、育成することが急務です。
処方箋③:IT担当者がヘルメットを被る日を作る
IT部門の担当者に、最低でも数日間、ヘルメットを被って現場の作業を体験させてください。ただ見学するだけでは意味がありません。汗をかき、油の匂いを嗅ぎ、現場のペイン(痛み)を肌で感じさせるのです。現場の作業員がなぜ今のやり方に固執するのか、その理由が頭ではなく体で理解できた時、初めて血の通ったシステム設計が可能になります。
処方箋④:完璧な100点より、現場が喜ぶ60点の改善から始める
最初から全社規模の完璧なシステムを目指すのは、最も失敗しやすいパターンです。まずは、たった一つの部署の、一人の作業員の「ちょっとした不満」を解決する60点の改善から始めましょう。その小さな成功体験が「IT部門は敵じゃない、味方なんだ」という信頼を生み、次の改善への強力な追い風となります。スモールスタートこそ、急がば回れの最良の道です。
処方箋⑤:「変えないこと」を決める
DXは、全てをデジタル化することではありません。むしろ、「何を変えないか」を決めることの方が重要です。長年の経験で培われた「匠の技」や、言葉にできない「暗黙知」。それらは無理にデジタル化しようとすると、本質的な価値が失われてしまいます。守るべき聖域を明確にし、現場へのリスペクトを示すことが、変革への抵抗を和らげる鍵となります。
まとめ:DXの主役は技術ではなく「人」である
製造業DXの失敗の根本原因は、技術やツールではなく、人と人との間にある「文化の壁」「コミュニケーションの断絶」です。
あなたのプロジェクトがもし上手くいっていないのだとしたら、それはあなたの能力不足が原因なのではなく、この巨大で目に見えない敵と戦っているからです。
高価なAIを導入する前に、最新のIoTセンサーを設置する前に、まずやるべきことがあります。
それは、隣の部署で働く「人」が、どんな言葉を話し、何を正義だと信じ、何に困っているのかを、真摯に理解しようと努めることです。
DXの主役は、いつだって技術ではなく「人」なのです。
まずは、IT担当者がヘルメットを被る。あるいは、現場のリーダーがITの勉強会に参加する。その小さな一歩から、本当の変革は始まります。

